笠戸島の歴史

笠戸島の誕生

伝説や歴史に見る笠戸島は古く 神功皇后の新羅親征や厳島明神様、七浦恵比寿にかかわる地名のおこりから、また、歴史の上では平 重衛の兵火で焼失した奈良の東大寺の造営に周防国があてられ俊乗坊重源のよって建久6年東大寺が竣工、現在の大柱類は、その時のもので海上運輸された。

 

足利尊氏が九州から攻め上がった時に、尊氏の大船団が笠戸浦に着陣し、その後湊川の戦いに勝った。
足利義満が、海路厳島神社に詣で更に九州に就く途中下松の笠戸湾に大内 義弘が出迎えている。かなり古い時代から知られた島である事がわかる。
島内の深浦・本浦は旧藩時代から海路の風待港として利用されて来た。

 

笠戸島の七浦(ななうら)伝説

古くは島内には七の浦が存在した伝説がありました。
実際には、本浦・江の浦・大松浦・小深浦・深浦・東風浦の六浦、厳島神社を笠戸島に造営する予定が六浦しかなかった為 広島県 宮島に造営されたとの伝説があります。古くから伝説は諸説あり。こうしたところも笠戸島の魅力です。

 

古き笠戸島Ⅰ

明治以降 深浦八幡宮の神官 村上氏の「二島記」によると
 深浦 79軒
 小深浦 5軒
 深淵  6軒
 大松浦 4軒
 江の浦 3軒
尾郷以東は笠戸の属し不明となっています。
江の浦の町は、お大師様から市出張所の辺りまで海の寂しい場所であった様です。

 

大正7年(1918年)笠戸島船渠株式会社が江の浦に設立された事で、この建設工事にかかわる人やその生活を支える人々が、北陸・関西方面から移住して来た模様です。
会社の設立で造船所には専用の送電があり、専用の社用船を利用したようだが、一般島民の食糧・雑貨等は運搬船か漁船を利用し人々はランプと井戸水の生活であったが、大正15年笠戸島に電灯が末武南村の助成金などもあり点灯されたとの事です。

 

古き笠戸島II

昭和 20年7月25日早朝から午後3時まで岩国市から下松市にかけて艦載機百機が来襲し笠戸船渠、江の浦の町に爆弾が投下され死者2名 負傷者9名工場以外の建物の被害11戸

7月28日 夕方再び 笠戸船渠と江の浦が艦載機の銃撃・爆弾を受け死者3人 負傷者9名をだした。(笠戸島の歴史をたずねて 山本 哲氏)

 

昭和45年、笠戸大橋の完成と同時に笠戸島に上水道の給水が始まった。架橋と造船所の拡張発展は人々を豊かにした、マイホーム、マイカーの時代に入り通勤はより便利のなって来た、その結果 人口に流失しかつて繁栄を誇った島の経済は音をたてて崩れ始めた、転居による住民の減少は止めることなく続き小さな商店を直撃・閉鎖・閉店するようになった昭和63年3月 長引く造船不況により笠戸船渠は解散し全員解雇になり修繕船を主体とする新笠戸ドックが設立され、少しの従業員の雇用が確保された。企業の社会的責任は重い。

 

伊能 忠敬と笠戸島 POINT:忠敬の一行も笠戸島を測量する

伊能 忠敬は文化5年(1818年)74歳でこの世を去ったが、3年後の文政4年(1821年)弟子達のよって225枚からなる「大日本沿海興地全図」の完成をみた。

笠戸島の歴史_図1
幕府御用の測量隊が笠戸島に関わるのは文化3年4月20日(1806年)晴天 一番隊は室積村から光井村を測り浅江村から大水無瀬島・小水無瀬島を測る船で末武下村に宿泊三番隊 坂部・稲生・永沢が笠戸島白浜から右回りに瀬戸口に至る。小島を一周測る。
四番隊下河辺・佐藤・丈助は白浜小島からひぶり岬まで測り、夜の入り帰宿。

(続)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*